昭和五十七年九月六日 朝の御理解


 御理解第九十一節
もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者は、そう      いう行をせんでも、みやすうおかげを受けさせる。


昨日、ある方が神様にお知らせを頂いたというお届けの中に『携帯用のカボチャを持て 』と頂かれた。それが誰だったか、おそらく皆さんの中にあるかも知れません。携帯用のカボチャ、ここでは馬鹿と阿呆で道を開けと黙って治めると成り行きを尊ぶとか大切にするといったような教えの中に、私はこの教えが大きく教えがしめておると思うんですね。黙って治めるという事でも、成り行きを大切に尊ぶという事でもね、やはりここは馬鹿と阿呆で行こうと。それを積んでいっておるうちに、それがどのように素晴らしい偉大な大きな信心であるかという事が体験させて頂きますと、その事が、もう楽になります。いや、そしてそういう馬鹿と阿呆になる事の素晴らしさが、身に付いてまいります。だから身に付くまではね、お互い携帯用のカボチャを持たなきゃだめなんです。
もう、本当馬鹿と阿呆で行こうと、勿論ここでカボチャというのは、馬鹿か阿呆の代名 詞のように言われますよね。あれはぼうぶらんごたる奴ち、こう言うですよ。私の方あたりではね。いうなら、時に頂くお知らせですけれども、携帯用のカボチャとはなかなか素晴らしい事だなと思った。
馬鹿で行こう、阿呆で行こう、私が辛抱しときさえすりゃええといったような腹を決め ますけれども、いつの間にか忘れてるわけですね。ちゃんと家に置き忘れて来とる。だから、それがね自分の身に付くまでは、やはりそんな修行がいるのです。
昨日も、退がらせて頂きましたら久富繁雄さんが言われるのに、もう、私はこうして弟 さんからかなんか洋服を頂いた。それがちょいとこまいから、ボタンがつまらない。本当失礼ですけれどもというふうに、言われるんです。いやあもう、あんたボタンやらつめんでええが、と。
昔の椛目時代の信者さん方は、そういう信心を本気でいたしました。どんなに熱う、今 のように扇風機があるわけじゃなし冷房があるわけでもなし、そりゃ椛目のお広前の暑さといったら、も本当に、も本当に暑い。そして、表はまあだアスファルトになってる前ですから、埃がするのでぴたっと閉めとかにゃでけん。も、ちょっと何とも言えんこと暑かった。けれども、今でも私はあれが、私共の椛目の楽室の方に使う、この楽室というのがまた反対にお広前の続きですけれどもね、上に大きな木がありますから、もういつもその木に当たった風が下へスウーッと抜けてくるように涼しい部屋でした。四畳半の小さい楽室で、だから私があちらへ退がりますと、本当に涼しい部屋でしたけれどもお広前は室のように熱い中に、皆さんが汗ぶるぶる流しながら御祈念したもんです。しかも、簡単シャツやら開襟シャツやらで参ってくる人は一人もおりませんでした。誰にも言わなかったけれども、私がそういう修行をしとる時ですから、皆さんも、兎に角洋服の、例えば夏でもボタンをはずすといったような事はありませんでした。私も修行中には洋服でしたけれども、この、ちょっとこのボタンが外れておったら、神様が、この羽織の紐が反対になっとるところを頂く。はっと、思ってみるとボタンが外れておるという位に、神様も私に対して厳しかったですね。
今は、段々そういうあれがなくなりましたけれども、やっぱり昔の名残が残っておりま すから、昔の信者さん方はみんな夏でもきちっとして見えるでしょうが、合楽の場合は。誰もどういうた事ないけども、もうそういう修行が身に付いてしまっておられるんです。椛目時代からの御信者さんはね。その信心の、いうならば修行が身に付く。
これは、昨日研修の時に話したことでございましたけれども、昨日の、いうならば御理 念が頭で分かる、心の調子の良い時には成程御理解が入ってくる。成程成程と聞くけれども、分かっただけ聞いただけじゃいかん。調子が良く頭の中に入っただけじゃいかんね。その、例えば御教えがですね、頭がじゃなくて心が受けつけ体が受け付けなければダメだといって、もう、御理解でしたね。体が受け付けなければ、だめなんです。そんな事はわかっとるけども、体が受け付けないと、やはり楽な方へ楽な方へとなりがちなんです。
私の修行中時分に、久留米に、丁度、夏の暑い盛りを目指して歩いて、久留米にお参り するんです。やっぱ、どうしても家があると家の日陰のところを通ろうとするとね、『楽をする心は堕落する心ぞ』とお知らせ頂きよりました。だから、暑いところをえって歩かせてもらう。せっかく修行さしてもらうならば、少しでも本当の修行したいという思いで一杯の時ですから、そして、神様が丁度どこ辺でしたか、あの左官さんが、丁度、炎天に勿論こう地下足袋はいてからでしたけども、瓦の上で、仕事をなさっとるのを神様が指差して、「見てみれ、あれが自分の仕事という事になったら、この炎天に瓦が焼き付くように焼きついとる、あの上で仕事しておるじゃないか」といって、こ、いわゆる日向日向をえって歩かせて下さる。今から考えてみると、あんな馬鹿げたと思いますけども、そういう時に何が身に付いたかというと、もう楽はせんぞ、させて頂くものだというようなものが身に付いて来たんです。
椛目時代からの御信者さんの場合なんかは、いうならば、あの時分になさった修行が今 でもやっぱりここに夏の洋服のあのボタンがしまらんと、いやあ本当御無礼ですけれどもと、こうお詫びする心があるんです。
もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者は容易う、いうなら 楽におかげを受けられるという事は、しだごたで良いという事じゃないですね。楽をしようと思う心は、必ず堕落する心だ。だから、そういうものが身に付くまでは携帯カボチャを持っとかなきゃでけん。いつも自分の心からはずさんね。それが、血になり肉になりするおかげを頂いて、本当に、私の、も兎に角修行中時分な、もう兎に角なんというでしょうかね。もう、おかげが受けられる、お徳が受けられるという話を聞いたら、もう早速それを体が受け付けておった、心が受け付けておったんですね。
福岡の千代町に、田原さんという大きな家具屋さんがあります。甘木の御信者で大変熱 心な方、その方の話しを聞いた。千代町から箱崎、東公園ですかね、を一周りしてくると一里あるそうです。晩、お店がしまわれた後に、一辺通り回ってお百度踏まれるというお話しを聞きました。ね、私は、もうその日からお百度を始めました。体が受け付けているんですね。
だから、本当に体が受け付け心が受け付けなければ、御理念が頭で分かった、ああ今日 の御理解は有難かったと心の調子の良い時には入ってくるけども、入って来ない時には眠気がつくごた。だからね、入るという事も大事ですけども、それを心で体で受け付けるね。もう、本当に、それが取り組ませて頂ける者が出来て、最近、お教会に生き生きした御比礼が輝きだしたという事を、石動の宮田先生が神愛会に発表してられた話しを、昨日聞いて頂いたですよね。
ですから、体が受け付ける心が受け付けるね、受け付けないと例えばやっぱり楽な方へ 楽な方へというならば、それが楽な方へ楽な方へが堕落な方へなっていくんです。あれは、一つの信心のタイプというか型が出来てしまう間は、お互いやっぱり修行ですよね。けれども、私はこういう一つの合楽の風といいましょうかね、御流儀というか、そういう良いものはやっぱり残しておきたいですね。
そりゃもうよその教会に行きますと、夏になると、もうそれこそ開襟シャツに半ズボン で、そんな事は全然ね、もうお説教というと、また先生が言われます「どうぞ、皆さんお足を楽にして下さい」というふうに。私は足を楽にしておる人があると、そこば一時ばかりジィーッとみとる。座り直さなきゃおられん事、いや本当です。
そりゃ、今ここでは涼しいですけれども、椛目の時分なもう暑かったですから、中でお 話しがあれば扇子使う人がありますと、私はジィーッと見よる。そこに扇子使う所ば眺めとるから、ハッと思って扇子、扇子使うたり団扇(うちわ)使うたりする人は今でも合楽ではありませんね。お話を頂きながら、扇子を使いながらね、足は楽に、いうなら、こ、いたぐらに坐にながらタバコどん吹かしながら、お説教を頂くといったようなお教会が沢山あるんです。
けども合楽で、私、言うわけじゃないけども今日は、事のついでですからお話ししとり ますけども、合楽ではそれが段々一つの合楽の御流儀のようになってね。そういうお流儀の悪い事は無くなって、そういう行、信心の行とでも申しましょうか、それが身に付くという事は素晴らしい修行なんです、ね。
後々の者は容易う、おかげが受けられる、ところが容易うが、も、楽な方へという事で はない。それはあられぬ行もする、なら水をかぶったり、断食をしたり、けどもそういういうならば金光様の御信心の教えに反するような行は、だから、私共はそれがわからんからいたしました。断食もするし、水もかぶらせてもらったね。
けども、これは金光様の御信心として、一つの行儀というか、一つの作法といったよう なものを体得しなきゃいけません。いわゆる、きちっとした信心せんときちっとしたおかげは、合楽では、昔この信心の節度という事が非常に言われました。ダラダラとした信心、節度のある信心をせろ、そこには必ずきちっとしたおかげもまた約束される。
自分の都合だけを中心にした修行ではね、本当な事にはなりません。たまたま、昨日家 の修行生の方達にお話を致しました事でした事でございましたがね。昨日の御理解に引き続いて、まずその修行を、信心の信行ですね。いわゆる信心の行、信行、心行、家業の行といわれる信心の行というものは、やっぱり身につけさせてもらい、きちっとした信心姿勢というか態度が出来て、その上にいうなら信心が育っていくというおかげを頂きたいもんです、ね。
容易うという事と、楽なという事は違うね。少しでも楽をしよう楽をしようというよう な行き方は、それが堕落につながる。一つの信心がきちっと出来てね、その上に立った信心ならね、人間が人間らしう生きながら、そこに信心の喜びを感じられるおかげを頂きながら、日々の生活さして頂く事が出来る。
先達て、私の孫の恵城が家内に話しているんですよ「お爺ちゃんは、おかげ頂いとる」 ち、言うわけですよ。「なんね」ち、家内が言いよりましたら、「お爺ちゃんは、寝ながら足を揉んでもらいながら、テレビどん見てから」ち、言うです。私は、その時びっくりしましたね。
成程、毎日足を揉んで貰いながら、ちょっと手の届く所にテレビがありますから、テレ ビを、足どん揉んで貰いながらテレビを見とるとね。けれども、これは私よがりに聞こえるかもしれませんけどもね。楽はせんぞという修行をさせて頂いて、させて頂く楽なんですよね。で、申しました。「朝の三時から起きて、お爺ちゃまはこうやって修行しよんなさる」という事を、いちょ見せとかないかんねと、言うた事です。
どうぞ皆さん、楽はさせて頂く修行なら絶対有難いが伴います。自分が楽をしようとし て楽するのは、それでもまあだ足りんような事しかおこってまいりませんね。修行の原点とでも申しましょうか、そのいうならば基礎的な修行がきちっと出来て、その上に楽はさせて頂くもんだというようなおかげを頂けば、いよいよね有難い。
信心は、いわば容易うという前に、やはり難しい所も一辺体験させて頂いてね、そして 、その上に頂けれるね、楽な信心。初めから楽な信心といったような事ではね、いわゆるきちっとしたおかげは頂けません。ひとつ、信心にきちっとした一つの節度を持つね。そういう節度が身に付いてくる為には、いつも携帯しておかなければならない教え。馬鹿と阿呆にと、いうなら馬鹿と阿呆にね。いよいよ成り行きを尊ぶ、大切にする。これだけはと、自分の心に誓っとるから間違いのないようですけれども、それが携帯用でない証拠に忘れてしまっておる、ね。携帯用のいうなら教えという、携帯用のカボチャを持たして頂かなきゃならんですね。                                                           「どうぞ」